この3月末で、33年間にわたる会社生活を終え、少し早いが引退生活に入ることとなった。5年間書き続けたこのコラムも、これが最後となる。これを機会に、価値観という観点から日本の問題を考えてみたい。
会社生活をはじめた頃は、高度成長期のさなかだった。当時の日本は、まだまだ貧しく、世をあげて経済成長が指向されていた。三分の一世紀が経って、日本の一人あたりGDPはすでに米国の水準に肩を並べ、数字の上では豊かな国となった。しかし国民は豊かさを実感できず、逆に国全体に、伝染病のように重苦しい閉塞感が広がっている。
そもそも物質的な富の増大とは、国民幸福の実現のための手段であったはずだが、その手段がいつの間にか目的と化してしまい、実現される名目上の富を真の豊かさに転化する戦略が、国家レベルにおいても個人レベルにおいても、忘れ去られていたように思える。
この10年進められてきた構造改革にしても、本来は国民の豊かさを実現する手段であったはずだが、構造改革を進めた90年代に国民は1200兆円の資産を失うことになる。日本の年間自殺者数は3万人を越え(1999年)、そのうち30%(9000人)は、経済的理由によるものと云われる。ベトナム戦争の時でさえ、米軍の戦死者は年間平均で5000人程度であった。国民の豊かさを求めて皆がこぞって進めてきた改革が、皮肉にも国民の生命財産に多大の犠牲を強いている。ここにも目的と手段の関係に歪みが見える。
その結果、社会の価値観に揺らぎが生じはじめている。「みんな一緒に、仲良く、一生懸命」という古い共同体の価値観は徐々に力を失い、そうかといって、それに替わる新しい価値観は、まだ社会に定着していない。集団の迷走を押しとどめ、社会にバランスをもたらすのは、結局、意見を持つ個人の存在でしかない以上、一刻も早く健全な個人主義が、日本社会に根付かなければならない。
しかし残念なことに、日本には「個」が育ってこなかった。日本文化に「個」がなかったわけではないが、西欧文明における「個」とは、社会を構成する最小限の核として積極的な意味合いを持つのに対し、日本文化における「個」は、西行、山頭火などのように、社会に背を向けた漂泊の詩人というポーズを取ることが多い。特に人が共同体のありように幻滅を感じたときに、日本人はこの消極的な「個」に逃避する傾向がある。
「個」の在り方を考える上で参考となる例として、ロスタンの戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』を引用したい。最後まで権威に迎合することなく、貧窮の中で最期を迎えたシラノは、(自分の地位財産は奪えても、決して自分から奪えないものがある。それは)「私の羽根飾(こころいき)だ」と叫ぶ(辰野隆、鈴木信太郎訳)。羽根飾とは彼の尊厳の象徴だった。個人主義の国フランスでは、シラノが今なお最も好まれる人物像となっている。結局、「個」が生きる社会とは、他から与えられるものではなく、各人が自分の尊厳(ディグニティー)を守る努力をすることで実現するものだと思う。
小生も最後に「私の羽根飾(こころいき)」と云って筆をおくこととする。さようなら。
(橋本尚幸)
2001年3月1日木曜日
2001年2月1日木曜日
「徳政令」の亡霊に怯える現代日本
今年のNHK 大河ドラマ「北条時宗」は、なかなか快調な滑り出しだ。秩序を重んじ公儀に生きるという、伝統的な侍のイメージとは大きく異なる、どぎついまでに個性的で荒々しい武士がたくさん登場するのが面白い。舞台の鎌倉時代は、いろいろな意味で日本の源流を形づくった時代だが、我々の祖先はもともとこういう人たちであったのだと思うと、なにやら元気が出てくる。
経済史的にみると、鎌倉幕府とは地方地主の権利を朝廷に認めさせた一種の共和政権といえる。幕府の成立はイギリスのマグナ・カルタの調印よりも古く、世界史的にも誇りうるものだ。
一方で、鎌倉時代にも汚点がある。弘安の役で困窮した御家人集団を救うため実施された、すべての借金を棒引きにするという「徳政令」のことである。債務者にとっては、債務の免除は確かに「徳政」かもしれないが、債権者にとっては資産の召し上げであり「悪政」となる。だから「徳政令」とは、「公的権力による、特定の集団からの富の収奪と、別の集団への富の再分配」と定義したほうがよい。
たいていの場合、徳政令の受益者の声の方が大きいので政治的に人気を得やすい。よって鎌倉時代以降、歴代政府は、いろいろ形を変えながらこれを繰り返して来た。
記憶に新しいものは、太平洋戦争後の新円切り替えだが、政府は預金封鎖とインフレで債権者(預金者)の資産を奪い、債務者(政府)の借金を棒引きにした。戦後の「ばらまき行政」にしても、納税者から特定既得権集団への富の再分配であり一種の徳政令だ。魅力のある鎌倉時代ではあるが、以後につながる「徳政令」の前例を作ったのだけは感心しない。
今、積み上がる巨額の財政赤字を抱え、政治家や官僚がこの伝統の「徳政令」の誘惑に駆られるとしても驚くことではない。平成の世に、徳政令をどういう形で具現化させうるかというと、まずはインフレという形での借金の棒引き。すべての国民の資産の実質価値を低下させることで債務者(政府)の借金を棒引きにできる。また資産課税や相続税の徴税強化もある。政府の債務は700 兆円。それに対し日本の個人金融資産は1300 兆円。人はいつかは死ぬので、気長に待ってこれを相続税で召し上げればよいとの安易な発想。だから財政再建になかなか本腰が入らない。
でも、こうした徳政令は、過去には成功したかも知れないが、平成の世には決して成功しないだろう。内外物価の平準化で当分はデフレが続くので、インフレ誘導はやろうとしても難しい。平均寿命はどんどん延びるので、相続税収も期待できない。一番大きな理由は、昔の日本経済は閉鎖経済であったが、今はグローバル経済の時代だということだ。国民と政府の関係は、伝統的な運命共同体的な関係から、間に距離を置いた利害関係に変化しつつある。国民の政府に対する信頼感がいったん低下するや否やキャピタルフライトが始まる。これは諸外国で経験済みのことである。
資本市場のセンチメントがなかなか好転しないのは、納税者から富を集め既得権集団にそれを再配分するという、昔ながらの政治の「徳政令」的体質に、市場が不安を感じているからだと思う。
(橋本尚幸)
経済史的にみると、鎌倉幕府とは地方地主の権利を朝廷に認めさせた一種の共和政権といえる。幕府の成立はイギリスのマグナ・カルタの調印よりも古く、世界史的にも誇りうるものだ。
一方で、鎌倉時代にも汚点がある。弘安の役で困窮した御家人集団を救うため実施された、すべての借金を棒引きにするという「徳政令」のことである。債務者にとっては、債務の免除は確かに「徳政」かもしれないが、債権者にとっては資産の召し上げであり「悪政」となる。だから「徳政令」とは、「公的権力による、特定の集団からの富の収奪と、別の集団への富の再分配」と定義したほうがよい。
たいていの場合、徳政令の受益者の声の方が大きいので政治的に人気を得やすい。よって鎌倉時代以降、歴代政府は、いろいろ形を変えながらこれを繰り返して来た。
記憶に新しいものは、太平洋戦争後の新円切り替えだが、政府は預金封鎖とインフレで債権者(預金者)の資産を奪い、債務者(政府)の借金を棒引きにした。戦後の「ばらまき行政」にしても、納税者から特定既得権集団への富の再分配であり一種の徳政令だ。魅力のある鎌倉時代ではあるが、以後につながる「徳政令」の前例を作ったのだけは感心しない。
今、積み上がる巨額の財政赤字を抱え、政治家や官僚がこの伝統の「徳政令」の誘惑に駆られるとしても驚くことではない。平成の世に、徳政令をどういう形で具現化させうるかというと、まずはインフレという形での借金の棒引き。すべての国民の資産の実質価値を低下させることで債務者(政府)の借金を棒引きにできる。また資産課税や相続税の徴税強化もある。政府の債務は700 兆円。それに対し日本の個人金融資産は1300 兆円。人はいつかは死ぬので、気長に待ってこれを相続税で召し上げればよいとの安易な発想。だから財政再建になかなか本腰が入らない。
でも、こうした徳政令は、過去には成功したかも知れないが、平成の世には決して成功しないだろう。内外物価の平準化で当分はデフレが続くので、インフレ誘導はやろうとしても難しい。平均寿命はどんどん延びるので、相続税収も期待できない。一番大きな理由は、昔の日本経済は閉鎖経済であったが、今はグローバル経済の時代だということだ。国民と政府の関係は、伝統的な運命共同体的な関係から、間に距離を置いた利害関係に変化しつつある。国民の政府に対する信頼感がいったん低下するや否やキャピタルフライトが始まる。これは諸外国で経験済みのことである。
資本市場のセンチメントがなかなか好転しないのは、納税者から富を集め既得権集団にそれを再配分するという、昔ながらの政治の「徳政令」的体質に、市場が不安を感じているからだと思う。
(橋本尚幸)
2001年1月1日月曜日
インデックス型投資信託と総合商社
2000 年後半の日本の株価下落はきびしかった。なかでもハイテク株の急落はきつく、時代を先取りするつもりでIT 関連の株を多く組み込んだ成長株投信を買っていた人たちは、苦い思いで年末を迎えたのではないだろうか。こんな方にぜひ読んで貰いたい本がある。バートン・マルキールの『ウォール街のランダム・ウォーカー』という本だ。
「株式投資の不滅の真理」との副題がついたこの本はアメリカですでに150 万部近く売れている。結論は全ての戦略的な投資信託は疑ってかかれと云うもの。著者は、何千本と販売されている投資信託(バリュー型、ファンダメンタルズ型、成長型、テクニカル型などなど)の過去のパフォーマンスを徹底的に検証し、ほとんどの戦略的な投資信託は単純に機械的に投資を分散するS &P インデックス連動型投信よりもパフォーマンスが悪いことを立証したのだ。株価の動きは結局誰にも解るものではないので、いわゆる「戦略ファンド」はファンドマネージャーに支払う馬鹿高い報酬分だけ確実にパフォーマンスが悪くなると云う、まことに理屈にあった理論だ。
当然投信の運用で飯を食っているファンドマネージャーには大変評判が悪いが、個人投資家には大人気でミリオンセラーとなっている。
さてこの理論の企業経営へのインプリケーションを考えてみたい。このマルキールの教えを早くから実践している企業が存在するのだ。それこそ世界に冠たる日本の総合商社だ。
扱い品目は二万点を越えると云われ、産業の隅々にまでその活動範囲を広げており総合商社の業容は日本経済の縮図とも云われる。実際に総合商社の粗利益はGDP などのマクロ指標と驚くほどの相関性がある。まさにビジネス版のインデックス投信だ。総合商社はその幅の広さ故に抜群の不況対応力を持ち、数々の「冬の時代」を乗り越え生き残ってきた。このことは総合商社の今後の課題を考える上できわめて示唆的である。二つのことが言えよう。
まず第一に、総合商社にとって「総合性」こそがコアコンピタンスであるということ。「戦略分野」なるものを特定し突っ込むのもよいが、むしろ経済全体の構造変化に的確にフォローし資源配分を継続的に変化させ続ける事が重要となる。総合性を失った総合商社は「ただの会社」だ。
二つ目に言えることは、社内コストの低減が重要課題であるということだ。インデックス型投信が競争力があるのは運用コストが圧倒的に安いからである。前述のように商社の粗利益はマクロ指標で規定される以上、いかにコストを削減し生産性を上げるかで純利益に差が出る。はやりのIT をいかにコスト削減に結びつけうるかが勝負の分かれ目となる。
蛇足ながら、マルキール理論は国民経済についても適用可能だろう。最近、政治家や官僚が今後の成長分野はこれだと変な指導力を発揮しているのをみるとある種の危うさを感じる。コルベール以来、上からの産業政策が成功した例は少ない。何もしない小さな政府は、変なリーダーシップを発揮する大きな政府に勝る。
(橋本尚幸)
「株式投資の不滅の真理」との副題がついたこの本はアメリカですでに150 万部近く売れている。結論は全ての戦略的な投資信託は疑ってかかれと云うもの。著者は、何千本と販売されている投資信託(バリュー型、ファンダメンタルズ型、成長型、テクニカル型などなど)の過去のパフォーマンスを徹底的に検証し、ほとんどの戦略的な投資信託は単純に機械的に投資を分散するS &P インデックス連動型投信よりもパフォーマンスが悪いことを立証したのだ。株価の動きは結局誰にも解るものではないので、いわゆる「戦略ファンド」はファンドマネージャーに支払う馬鹿高い報酬分だけ確実にパフォーマンスが悪くなると云う、まことに理屈にあった理論だ。
当然投信の運用で飯を食っているファンドマネージャーには大変評判が悪いが、個人投資家には大人気でミリオンセラーとなっている。
さてこの理論の企業経営へのインプリケーションを考えてみたい。このマルキールの教えを早くから実践している企業が存在するのだ。それこそ世界に冠たる日本の総合商社だ。
扱い品目は二万点を越えると云われ、産業の隅々にまでその活動範囲を広げており総合商社の業容は日本経済の縮図とも云われる。実際に総合商社の粗利益はGDP などのマクロ指標と驚くほどの相関性がある。まさにビジネス版のインデックス投信だ。総合商社はその幅の広さ故に抜群の不況対応力を持ち、数々の「冬の時代」を乗り越え生き残ってきた。このことは総合商社の今後の課題を考える上できわめて示唆的である。二つのことが言えよう。
まず第一に、総合商社にとって「総合性」こそがコアコンピタンスであるということ。「戦略分野」なるものを特定し突っ込むのもよいが、むしろ経済全体の構造変化に的確にフォローし資源配分を継続的に変化させ続ける事が重要となる。総合性を失った総合商社は「ただの会社」だ。
二つ目に言えることは、社内コストの低減が重要課題であるということだ。インデックス型投信が競争力があるのは運用コストが圧倒的に安いからである。前述のように商社の粗利益はマクロ指標で規定される以上、いかにコストを削減し生産性を上げるかで純利益に差が出る。はやりのIT をいかにコスト削減に結びつけうるかが勝負の分かれ目となる。
蛇足ながら、マルキール理論は国民経済についても適用可能だろう。最近、政治家や官僚が今後の成長分野はこれだと変な指導力を発揮しているのをみるとある種の危うさを感じる。コルベール以来、上からの産業政策が成功した例は少ない。何もしない小さな政府は、変なリーダーシップを発揮する大きな政府に勝る。
(橋本尚幸)
2000年11月30日木曜日
資産の活性化が日本再生の鍵
米国大統領選挙での大接戦はいろんな意味での国の二分化を示すものとして暗示的だが、そのひとつに富の二分化がある。今回の選挙の両党の得票者を所得階層別に分類したデータによると、年収5万ドルを境として収入が高いほど共和党への投票者が増え、逆に収入が低くなるほど民主党への投票者が増えるというきれいな対照性が観察できる。米国では上位1%の富裕層が株式全体の48%を保有しているが、この格差は更に拡大する傾向が見られる。
しかしこの富の格差が近年の米国経済の急拡大の原動力ともなっていたことも事実である。資本が集中することで、投資活動がより専門的でリスク許容度の高いものとなり、それが90年代の勇猛果敢な新規分野への投資と米国経済の大躍進に結びついた。
それに対し日本は、伝統的に平等を重んじる社会である。富の格差はきわめて小さい。上位一割の階層が所有する金融資産は全体の38%に過ぎず、上位1%の階層が株式の48%を保有するアメリカに比べて遙かに平等だ。更にこの格差は縮小する傾向にある。今年の国民生活白書によれば90年代を通じて日本人の資産格差は着実に縮小してきたとのことだ。
背景にはバブルの崩壊がある。90年代で日本国民が失った土地と株式の資産総額は1200兆円という。種々前提をおいて推計すると、日本の上位中産階級(上位一割の世帯、約400万世帯)は一世帯あたり4000万円の損失を被った計算になる。これは格差の縮小につながったが、同時に国民の投資活動を萎縮させ保守化させる結果にもなった。一方で、長期にわたる不況にも拘わらず勤労者所得は実質では目減りしていない。一人あたり実質GDPは90年比で約12%上昇している。失業率も5%以下だ。だから国民の危機感はまだまだ希薄で、構造改革は進まず、経済は停滞したままだ。
日本においては、ほとんどの国民は勤労者であると同時に資産家でもある。90年代を通じて日本国民の「資産家の側面」は大いに痛めつけられ、逆に「勤労者の側面」は過剰に保護されてきた。高齢化、少子化を迎え経済の生産性上昇が喫緊の課題となっている。そのために資本の有効利用と積極的な投資活動が決定的に重要だ。国民の「資産家の側面」を活性化させる政策が21世紀の日本の経済再生の鍵を握る。
(橋本尚幸)
しかしこの富の格差が近年の米国経済の急拡大の原動力ともなっていたことも事実である。資本が集中することで、投資活動がより専門的でリスク許容度の高いものとなり、それが90年代の勇猛果敢な新規分野への投資と米国経済の大躍進に結びついた。
それに対し日本は、伝統的に平等を重んじる社会である。富の格差はきわめて小さい。上位一割の階層が所有する金融資産は全体の38%に過ぎず、上位1%の階層が株式の48%を保有するアメリカに比べて遙かに平等だ。更にこの格差は縮小する傾向にある。今年の国民生活白書によれば90年代を通じて日本人の資産格差は着実に縮小してきたとのことだ。
背景にはバブルの崩壊がある。90年代で日本国民が失った土地と株式の資産総額は1200兆円という。種々前提をおいて推計すると、日本の上位中産階級(上位一割の世帯、約400万世帯)は一世帯あたり4000万円の損失を被った計算になる。これは格差の縮小につながったが、同時に国民の投資活動を萎縮させ保守化させる結果にもなった。一方で、長期にわたる不況にも拘わらず勤労者所得は実質では目減りしていない。一人あたり実質GDPは90年比で約12%上昇している。失業率も5%以下だ。だから国民の危機感はまだまだ希薄で、構造改革は進まず、経済は停滞したままだ。
日本においては、ほとんどの国民は勤労者であると同時に資産家でもある。90年代を通じて日本国民の「資産家の側面」は大いに痛めつけられ、逆に「勤労者の側面」は過剰に保護されてきた。高齢化、少子化を迎え経済の生産性上昇が喫緊の課題となっている。そのために資本の有効利用と積極的な投資活動が決定的に重要だ。国民の「資産家の側面」を活性化させる政策が21世紀の日本の経済再生の鍵を握る。
(橋本尚幸)
2000年10月1日日曜日
企業と倫理と集団と個人
アリを注意深く観察した人によるとせっせと働いているかに見えるアリの群も本当に働いているアリは全体の2 割にしか過ぎず残りの8 割のアリはほとんどさぼっているとのことだ。全員を働かせようとして働くアリだけの群をつくっても結果は同じ事でその中の8 割がまた怠けはじめるらしい。逆に働かないアリばかりを集めると今度はそのうち2 割が働き出すという。「群」の本能なのであろう。
自然の摂理であるならば人間社会にも当てはまるかも知れない。でも人間はアリより頭がよいのでこの2 割という数字を少しでも引き上げて全体の生産性を上げるべくいろいろ工夫がなされてきた。ひとつのやり方は単なる「群」を組織化し規律を高めひとつの目標に向けて邁進する運命共同体化するものだ。
これはどうも最初はユーラシア大陸の軍隊ではじめられたようで、ローマの亀甲歩兵軍団は、その組織力とチームワークでヨーロッパ全土を制覇した。ベンガルのプラッシーでは、整然と隊伍を組んだイギリス東インド会社軍は、人数は数倍だが烏合の衆に過ぎなかったムガール軍を殲滅しイギリスのインド支配を確実にした。日本においても、個人プレーしかできない鎌倉武士団は集団戦法を採る元軍に全く歯が立たず危うく征服されるところであった。
なぜ組織化された軍隊は強かったのか。国際政治学者の亡き高坂正堯によれば、密集隊形をとる軍隊の強さの秘密は兵士達が決して「大義」などという高尚な目的の為ではなく「肘と肘を付き合わせドラムの響きとともに前進する隣の仲間を裏切らないため」だけに超人的な勇気を発揮するからだそうだ。つまり集団主義のドライビングフォースはまさに組織体と仲間への忠誠であり、それは正義とか倫理などの普遍的な価値観より優先されるということなのである。
ここに問題が生じる。この点をいちはやく指摘したのが夏目漱石である。漱石は「私の個人主義」と題した講演(大正3 年、於学習院)のなかで「国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いものである」と述べ、人間は集団となるとどうしても徳義心を失いがちであるからこそ個人主義が重要であると説いたのだった。
昨今のたび重なる企業不祥事は社会に企業倫理の問題を提起している。多くの企業でコンプライアンス・システムの制度化が検討されているが、集団の本質に触れた漱石の指摘は傾聴に値するだろう。漱石は続いて、この集団主義と個人主義という二つの主義は矛盾するものではないとも話している。しかし「この点をもっと詳しく述べたいのだが時間がない」とそれ以上は論を進めなかった。その後すぐ漱石は死んでしまったので我々は「もっと詳しく」聴けないままでいる。だから我々は自分たちでこの「解」を見つけるべく努力しなければならない。
(橋本尚幸)
自然の摂理であるならば人間社会にも当てはまるかも知れない。でも人間はアリより頭がよいのでこの2 割という数字を少しでも引き上げて全体の生産性を上げるべくいろいろ工夫がなされてきた。ひとつのやり方は単なる「群」を組織化し規律を高めひとつの目標に向けて邁進する運命共同体化するものだ。
これはどうも最初はユーラシア大陸の軍隊ではじめられたようで、ローマの亀甲歩兵軍団は、その組織力とチームワークでヨーロッパ全土を制覇した。ベンガルのプラッシーでは、整然と隊伍を組んだイギリス東インド会社軍は、人数は数倍だが烏合の衆に過ぎなかったムガール軍を殲滅しイギリスのインド支配を確実にした。日本においても、個人プレーしかできない鎌倉武士団は集団戦法を採る元軍に全く歯が立たず危うく征服されるところであった。
なぜ組織化された軍隊は強かったのか。国際政治学者の亡き高坂正堯によれば、密集隊形をとる軍隊の強さの秘密は兵士達が決して「大義」などという高尚な目的の為ではなく「肘と肘を付き合わせドラムの響きとともに前進する隣の仲間を裏切らないため」だけに超人的な勇気を発揮するからだそうだ。つまり集団主義のドライビングフォースはまさに組織体と仲間への忠誠であり、それは正義とか倫理などの普遍的な価値観より優先されるということなのである。
ここに問題が生じる。この点をいちはやく指摘したのが夏目漱石である。漱石は「私の個人主義」と題した講演(大正3 年、於学習院)のなかで「国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いものである」と述べ、人間は集団となるとどうしても徳義心を失いがちであるからこそ個人主義が重要であると説いたのだった。
昨今のたび重なる企業不祥事は社会に企業倫理の問題を提起している。多くの企業でコンプライアンス・システムの制度化が検討されているが、集団の本質に触れた漱石の指摘は傾聴に値するだろう。漱石は続いて、この集団主義と個人主義という二つの主義は矛盾するものではないとも話している。しかし「この点をもっと詳しく述べたいのだが時間がない」とそれ以上は論を進めなかった。その後すぐ漱石は死んでしまったので我々は「もっと詳しく」聴けないままでいる。だから我々は自分たちでこの「解」を見つけるべく努力しなければならない。
(橋本尚幸)
2000年9月1日金曜日
まず身近なところから国際基準にあわせよう
暦では9 月7 日は「白露」といい、この頃から秋気が漸く加わるとされる。9 月に入っても気温が38 度近くまで上がることもあるが、ちょっとした涼風に秋が忍び寄ってきている気配を感じる時もある。夏をようやく過去形で語れるようになってうれしい限りだが、今年の夏は本当に暑かった。気象庁が発表した6 -8 月の気候統計によると、この夏、最高気温が30 度を超える真夏日が56 日もあり、熱帯地方さながらの記録的な猛暑であったという。
わけてもサラリーマンにとってたいへんだったのは朝の通勤だった。朝の太陽はすでに高くぎらぎらと人々を焦がし会社に着く頃には汗でハンカチはぐっしょりと濡れて気力ももうぐったりである。なぜ朝からこんなに太陽が高いのか。理科年表で調べてみると東京地方では午前3 時台にもう夜明けが始まる(6 -7月)。朝、会社に向かうときには夜明けからすでに5 時間程度経過しているのだ。太陽が高く暑いわけである。
先進国のなかで夏時間を導入していないのも日本だけだ。涼しいうちに会社に着けるよう夏時間の導入を真剣に検討してはどうだろうか。日本の諸制度をグローバル基準にあわせることが課題になっているが、こういう身近なところからまず始めて欲しいと思う。
国際標準に合わせる必要がある身近な問題はほかにもたくさんある。日本の都市景観もそうだ。特に空中に張り巡らされている無数の電線と無遠慮に林立する電柱は都市景観を著しく醜いものとしている。日本の社会資本ストック(残高)は一人あたりで先進国中ダントツだが電線の地中化では先進国はおろか発展途上国にも立ち後れたままだ。
日本のオフィス環境についても然りだ。一人あたりのスペースが非常に狭い。最近インドからIT 関連技術者がぼちぼち東京にやって来つつあるが、彼らは日本の狭くて劣悪なオフィス環境に仰天しているという。欧米先進国に範を求め日本の後進性を罵ることが本意ではない。
問題としたいのは、大多数の日本人がこういった問題をそれほど深刻には受け止めていないということである。「夏時間で明るいうちに家に帰れば亭主のこけんに拘わる」とか「電柱が無くなれば犬が小便するときに困る」とか「狭い事務所のほうが社内のコミュニケーションが良くなる」とかいう。しかしこういった小さなローカル性が日本を魅力のない孤立した国にしていることは認識されるべきだろう。
魅力のない国には人は集まらない。人が集まらなければ21 世紀の経済発展もない。日本の諸制度をグローバル基準に合わせることはもちろん大切であるが、こういった身近な生活環境から国際基準にあわせていくことのほうがより意味のあることのように思える。
(橋本尚幸)
わけてもサラリーマンにとってたいへんだったのは朝の通勤だった。朝の太陽はすでに高くぎらぎらと人々を焦がし会社に着く頃には汗でハンカチはぐっしょりと濡れて気力ももうぐったりである。なぜ朝からこんなに太陽が高いのか。理科年表で調べてみると東京地方では午前3 時台にもう夜明けが始まる(6 -7月)。朝、会社に向かうときには夜明けからすでに5 時間程度経過しているのだ。太陽が高く暑いわけである。
先進国のなかで夏時間を導入していないのも日本だけだ。涼しいうちに会社に着けるよう夏時間の導入を真剣に検討してはどうだろうか。日本の諸制度をグローバル基準にあわせることが課題になっているが、こういう身近なところからまず始めて欲しいと思う。
国際標準に合わせる必要がある身近な問題はほかにもたくさんある。日本の都市景観もそうだ。特に空中に張り巡らされている無数の電線と無遠慮に林立する電柱は都市景観を著しく醜いものとしている。日本の社会資本ストック(残高)は一人あたりで先進国中ダントツだが電線の地中化では先進国はおろか発展途上国にも立ち後れたままだ。
日本のオフィス環境についても然りだ。一人あたりのスペースが非常に狭い。最近インドからIT 関連技術者がぼちぼち東京にやって来つつあるが、彼らは日本の狭くて劣悪なオフィス環境に仰天しているという。欧米先進国に範を求め日本の後進性を罵ることが本意ではない。
問題としたいのは、大多数の日本人がこういった問題をそれほど深刻には受け止めていないということである。「夏時間で明るいうちに家に帰れば亭主のこけんに拘わる」とか「電柱が無くなれば犬が小便するときに困る」とか「狭い事務所のほうが社内のコミュニケーションが良くなる」とかいう。しかしこういった小さなローカル性が日本を魅力のない孤立した国にしていることは認識されるべきだろう。
魅力のない国には人は集まらない。人が集まらなければ21 世紀の経済発展もない。日本の諸制度をグローバル基準に合わせることはもちろん大切であるが、こういった身近な生活環境から国際基準にあわせていくことのほうがより意味のあることのように思える。
(橋本尚幸)
2000年8月1日火曜日
グローバルスタンダード経営は日本企業を強くするか
株式会社に関する商法の規定の抜本的な見直しが検討されている。具体的には株主総会や取締役、監査役といった企業統治(コーポレートガバナンス)の在り方の見直しなどが柱だ。法務省では2年後をめどに法改正を目指すという。また経済同友会の企業経営委員会でも昨年来この問題についての検討が続いており年末には提言にまとめられる予定だ。あたかもよし。企業経営の目的は何か、企業経営はどうガバナンスされるべきか。この古くて新しい問題を取り上げてみたい。
最近の経営理論によれば企業は株主の利益のために存在するという。だから株主の立場からの企業経営者へのガバナンスを強化するべきでこれがグローバルスタンダードだとのことだ。確かに明快きわまりない。この数年の米国企業の力強い活躍ぶりと日本企業の低迷ぶりを見せつけられていると、この主張には説得力があり、簡単には反論しがたい雰囲気がある。けれども大多数の日本の経営者、従業員は、理屈はともかく、この理論には何かついてゆけないもの(違和感)を感じているのではないか。この違和感はどこから来るのか。
例えば「企業の目的は株主価値の最大化である。仕入先、従業員などのステークホルダーズへの報酬はあくまでも市場原理にもとづく利害調整にすぎず、これは経営目的とはならない」という。でもそもそも日本社会において企業とステークホルダーズの間に「市場」が存在するのだろうか。原材料とか所要資金とかの財・サービスには市場が存在するとしても労働力については市場はきわめて不完全である。転職は簡単ではない。また日本の労働者、従業員の勤労目的がどこかの国のように100 %経済的報酬の獲得だけにあるとも考えにくい。「意気に感じて働く」というタイプの従業員がまだまだ多いのである。
環境などの外部不経済については市場自体存在しない。日本ではステークホルダーズとの利害調整に市場原理が働かない(もしくはきわめて働きにくい)のである。前提が違う。よってこれらのステークホルダーズとの利害調整については経営者が個別に対処して行かねばならない。経営目的のひとつとならざるをえない。
経営者に対するガバナンスの強化についてもそうだ。グローバルスタンダード論者は独断専行に走る経営者を排除するためにガバナンスの強化が必要という。でも最近の日本経済の低迷を考えると、この状態からの脱出に必要なものはむしろもっと強力な経営者のリーダーシップではないのか。ガバナンス、ガバナンスといって「カバナンスを効かせたがその結果会社がつぶれてしまった」では笑い話にもならないのである。
企業は社会を構成するひとつの組織である。企業の所属する社会の特性に応じて企業の形態も異なってくる。さもなければ競争力を失う。日本社会はゆっくり変化しており、今はざかい期にある。その日本の現状にあわせ選択制の採用など現実性のある企業統治の在り方が議論されるべきだろう。
(橋本尚幸)
最近の経営理論によれば企業は株主の利益のために存在するという。だから株主の立場からの企業経営者へのガバナンスを強化するべきでこれがグローバルスタンダードだとのことだ。確かに明快きわまりない。この数年の米国企業の力強い活躍ぶりと日本企業の低迷ぶりを見せつけられていると、この主張には説得力があり、簡単には反論しがたい雰囲気がある。けれども大多数の日本の経営者、従業員は、理屈はともかく、この理論には何かついてゆけないもの(違和感)を感じているのではないか。この違和感はどこから来るのか。
例えば「企業の目的は株主価値の最大化である。仕入先、従業員などのステークホルダーズへの報酬はあくまでも市場原理にもとづく利害調整にすぎず、これは経営目的とはならない」という。でもそもそも日本社会において企業とステークホルダーズの間に「市場」が存在するのだろうか。原材料とか所要資金とかの財・サービスには市場が存在するとしても労働力については市場はきわめて不完全である。転職は簡単ではない。また日本の労働者、従業員の勤労目的がどこかの国のように100 %経済的報酬の獲得だけにあるとも考えにくい。「意気に感じて働く」というタイプの従業員がまだまだ多いのである。
環境などの外部不経済については市場自体存在しない。日本ではステークホルダーズとの利害調整に市場原理が働かない(もしくはきわめて働きにくい)のである。前提が違う。よってこれらのステークホルダーズとの利害調整については経営者が個別に対処して行かねばならない。経営目的のひとつとならざるをえない。
経営者に対するガバナンスの強化についてもそうだ。グローバルスタンダード論者は独断専行に走る経営者を排除するためにガバナンスの強化が必要という。でも最近の日本経済の低迷を考えると、この状態からの脱出に必要なものはむしろもっと強力な経営者のリーダーシップではないのか。ガバナンス、ガバナンスといって「カバナンスを効かせたがその結果会社がつぶれてしまった」では笑い話にもならないのである。
企業は社会を構成するひとつの組織である。企業の所属する社会の特性に応じて企業の形態も異なってくる。さもなければ競争力を失う。日本社会はゆっくり変化しており、今はざかい期にある。その日本の現状にあわせ選択制の採用など現実性のある企業統治の在り方が議論されるべきだろう。
(橋本尚幸)
2000年7月1日土曜日
一年で激減した日本の対外純資産残高の謎
最近の日本では景気の悪い話ばかりが続くので少々の悪いニュースでは驚かなくなっているが、6 月に発表された99 年末の本邦対外資産負債残高統計には文字通り驚倒してしまった。昨年一年で日本の対外純資産残高が一挙に36 %、額にして49 兆円も減少してしまったというのである。これは一体どういうことか。
対外純資産残高というと日本が外国に対して保有している資産総額から外国に対して日本が負っている負債総額を引いたものであり、いわば日本国民の貯金である。60 年代から日本の経常収支の黒字を毎年こつこつと積み上げて98 年末にはようやく133 兆円にまで育ったものだ。日本が高齢化社会を迎える将来、高年層を養うために大きな助けとなると頼りにしていたもので、まさに虎の子の貯金であった。それが一挙に4 割近くも減った。これほどまでの大幅減は過去になかった。理由を確かめねばならない。
日本銀行によると、対外資産負債残高の基本的な増減要因は、99 年中の財サービスの貿易収支、所得収支と移転収支の合計である経常収支であるが、これは12 兆円のプラスに働いた。しかし円高による外貨建の純資産の評価減が22 兆円発生した。さらに本邦株価の大幅な上昇で日本の負債の時価評価が増加したことでここでも大きな評価損が発生し、合計では経常収支の黒字を大幅に上回る損失となった。その結果、対外純資産は49 兆円もの大幅減少となったということである。
要は、経常取引ではコツコツと黒字を積み上げたのにも拘わらず為替と株で大損をして稼ぎが全部なくなった上に資産を食いつぶしてしまったという話で、まことにお粗末な話だ。
もう少し具体的に中身をみてみたい。切り口を変えて、49 兆円の純資産の減少の内訳を、直接投資、証券投資、貸付残高、借入残高などの項目別にみてみると、純資産減少のほとんどは証券投資、なかでも株式投資の減少(45 兆円)で説明できることがわかる。株式投資をさらに資産・負債に分けてみてみると資産(日本人の外国での保有株式)は5 兆円しか増えていないのに拘わらず負債(外国人の日本での保有株式)は50 兆円も増加していることがわかる。外国人投資家の日本における株式運用実績はTOPIX の上昇をはるかに上回るものであった。また証券投資のなかでの株式比率が外国人投資家では高く、日本人投資家では低かった(逆に債券比率が高かった)ことも大きな運用実績の差につながったようだ。
結論的にいえば、日本国民は日夜残業して働き、財サービスを輸出し資産を築きあげたが、資産を運用する投資家の国際競争力に彼我で大きな差があったために、せっかくの資産もあらかた失ってしまったということである。アリの蓄えをキリギリスが奪ってしまったかたちだ。これを繰り返さないためにも、日本人はもっと投資に強くならねばならないと身にしみて感じた次第である。
(橋本尚幸)
対外純資産残高というと日本が外国に対して保有している資産総額から外国に対して日本が負っている負債総額を引いたものであり、いわば日本国民の貯金である。60 年代から日本の経常収支の黒字を毎年こつこつと積み上げて98 年末にはようやく133 兆円にまで育ったものだ。日本が高齢化社会を迎える将来、高年層を養うために大きな助けとなると頼りにしていたもので、まさに虎の子の貯金であった。それが一挙に4 割近くも減った。これほどまでの大幅減は過去になかった。理由を確かめねばならない。
日本銀行によると、対外資産負債残高の基本的な増減要因は、99 年中の財サービスの貿易収支、所得収支と移転収支の合計である経常収支であるが、これは12 兆円のプラスに働いた。しかし円高による外貨建の純資産の評価減が22 兆円発生した。さらに本邦株価の大幅な上昇で日本の負債の時価評価が増加したことでここでも大きな評価損が発生し、合計では経常収支の黒字を大幅に上回る損失となった。その結果、対外純資産は49 兆円もの大幅減少となったということである。
要は、経常取引ではコツコツと黒字を積み上げたのにも拘わらず為替と株で大損をして稼ぎが全部なくなった上に資産を食いつぶしてしまったという話で、まことにお粗末な話だ。
もう少し具体的に中身をみてみたい。切り口を変えて、49 兆円の純資産の減少の内訳を、直接投資、証券投資、貸付残高、借入残高などの項目別にみてみると、純資産減少のほとんどは証券投資、なかでも株式投資の減少(45 兆円)で説明できることがわかる。株式投資をさらに資産・負債に分けてみてみると資産(日本人の外国での保有株式)は5 兆円しか増えていないのに拘わらず負債(外国人の日本での保有株式)は50 兆円も増加していることがわかる。外国人投資家の日本における株式運用実績はTOPIX の上昇をはるかに上回るものであった。また証券投資のなかでの株式比率が外国人投資家では高く、日本人投資家では低かった(逆に債券比率が高かった)ことも大きな運用実績の差につながったようだ。
結論的にいえば、日本国民は日夜残業して働き、財サービスを輸出し資産を築きあげたが、資産を運用する投資家の国際競争力に彼我で大きな差があったために、せっかくの資産もあらかた失ってしまったということである。アリの蓄えをキリギリスが奪ってしまったかたちだ。これを繰り返さないためにも、日本人はもっと投資に強くならねばならないと身にしみて感じた次第である。
(橋本尚幸)
2000年6月1日木曜日
景気対策の既成概念を問い直すとき
「人間は常に過去に学んだ経済理論の奴隷である」とは、古くさい経済理論への思いこみをいさめた警句であるが、日本の景気対策をめぐる議論を聞くにつけ、今さらながらこの言葉が思い起こされる。
いま日本で景気対策について為されている議論とはだいたい次のようなものだ。曰く「景気の回復感が今ひとつ感じられない。景気対策が必要だ。一方で積み上がる財政赤字はゆゆしき問題だ。しかしいま財政再建に手を着けると、ただでさえ弱い景気を更に冷やすことになる。それは経済理論が教えるところだ。経済学の教科書には、Y (GDP )=C (消費)+I (民間投資)+G (公的支出)とある。Gを減らすと同じだけY は減るので景気は悪くなるのだ。よって財政改革は景気が十分に良くなるまで待たねばならない」というものである。
この理屈は簡単であるだけに説得力があって、いままで財政再建は先送りにされ、ゼロ金利とともに公共事業中心の景気対策が継続されてきた。でも一向に自律的な景気拡大は始まらず、財政赤字は信じられないほどの大きさにまで拡大してしまった。今月発表された国際決済銀行(BIS )の年報はこの点を鋭く批判している。日本経済の低迷の「ただ一つの最も深刻な構造問題」は「弱い個人消費」であると指摘し、さらに「このままのペースで財政赤字の拡大を続けることは不可能(アンサステイナブル)」と、景気対策による政府財政の悪化が、雇用や年金受給に対する不安を強め、個人消費を萎縮させているとの見方を示している。
どうやら、いままでわれわれが正しいと信じて疑ってこなかった教科書そのものを問い直すべきときが来ているらしい。その意味で今般発表された富士通総研の絹川真哉氏による分析がとても興味深い。絹川氏は「構造的時系列モデル」という一般的な需要モデルに替わる新しいツールを使って日本において財政再建が短期的にも景気を刺激する効果があることを明らかにしたのである(FRI 研究レポート、May2000 )。われわれはこの研究成果を歓迎するものである。われわれ生活者の実感にきわめて近いものであるからだ。
多くのアンケート調査でも消費者の多くが消費支出抑制の理由として雇用、年金受給などにおいての将来の不安をあげている。将来不安が続く限り節約し貯金すること以外に何が自分の老後を保障してくれるというのか。国民がそう思えばこそ、一向に個人消費は伸びず、逆に実質値ではこの数年大きく減少し続けているのである。景気がいつまでたっても起爆しない根本的な理由はここにある。
いままで長い間、政府は在来型の景気対策を続けてきた。われわれはじゅうぶん待った。理論的な裏付けも、国際的機関からの外圧という大義名分も整った。「押してもだめなら引いてみな」という唄もある。いまやゼロ金利から脱却し財政再建に取り組むことことを考えるべき時ではないか。ひょっとしたら景気はいっぺんに良くなるかも知れない。「熱田津(にぎたづ)に船乗りせむと月待てば、潮もかなひぬ、今は漕ぎ出でな」(額田王)
(橋本尚幸)
いま日本で景気対策について為されている議論とはだいたい次のようなものだ。曰く「景気の回復感が今ひとつ感じられない。景気対策が必要だ。一方で積み上がる財政赤字はゆゆしき問題だ。しかしいま財政再建に手を着けると、ただでさえ弱い景気を更に冷やすことになる。それは経済理論が教えるところだ。経済学の教科書には、Y (GDP )=C (消費)+I (民間投資)+G (公的支出)とある。Gを減らすと同じだけY は減るので景気は悪くなるのだ。よって財政改革は景気が十分に良くなるまで待たねばならない」というものである。
この理屈は簡単であるだけに説得力があって、いままで財政再建は先送りにされ、ゼロ金利とともに公共事業中心の景気対策が継続されてきた。でも一向に自律的な景気拡大は始まらず、財政赤字は信じられないほどの大きさにまで拡大してしまった。今月発表された国際決済銀行(BIS )の年報はこの点を鋭く批判している。日本経済の低迷の「ただ一つの最も深刻な構造問題」は「弱い個人消費」であると指摘し、さらに「このままのペースで財政赤字の拡大を続けることは不可能(アンサステイナブル)」と、景気対策による政府財政の悪化が、雇用や年金受給に対する不安を強め、個人消費を萎縮させているとの見方を示している。
どうやら、いままでわれわれが正しいと信じて疑ってこなかった教科書そのものを問い直すべきときが来ているらしい。その意味で今般発表された富士通総研の絹川真哉氏による分析がとても興味深い。絹川氏は「構造的時系列モデル」という一般的な需要モデルに替わる新しいツールを使って日本において財政再建が短期的にも景気を刺激する効果があることを明らかにしたのである(FRI 研究レポート、May2000 )。われわれはこの研究成果を歓迎するものである。われわれ生活者の実感にきわめて近いものであるからだ。
多くのアンケート調査でも消費者の多くが消費支出抑制の理由として雇用、年金受給などにおいての将来の不安をあげている。将来不安が続く限り節約し貯金すること以外に何が自分の老後を保障してくれるというのか。国民がそう思えばこそ、一向に個人消費は伸びず、逆に実質値ではこの数年大きく減少し続けているのである。景気がいつまでたっても起爆しない根本的な理由はここにある。
いままで長い間、政府は在来型の景気対策を続けてきた。われわれはじゅうぶん待った。理論的な裏付けも、国際的機関からの外圧という大義名分も整った。「押してもだめなら引いてみな」という唄もある。いまやゼロ金利から脱却し財政再建に取り組むことことを考えるべき時ではないか。ひょっとしたら景気はいっぺんに良くなるかも知れない。「熱田津(にぎたづ)に船乗りせむと月待てば、潮もかなひぬ、今は漕ぎ出でな」(額田王)
(橋本尚幸)
2000年5月1日月曜日
商社マンと異文化交流
春といえば人事異動の季節だが、これはいつも悲喜こもごもだ。海外への異動にしても、気候が良く文化の香り高い先進諸国へ赴任する人もおれば、灼熱の太陽に焦がされる砂漠の国に往く人もいる。もちろんそういうところが好きな人もおり、そのへんうまく調整すればよいのではあるが、これもなかなか難しく、赴任地が本人の個人的趣味と希望に一致している場合はむしろラッキーで、多くの場合なかなかそうは行かない。海外ポストの公募制も議論されるが、一刻を争う機動的なビジネス展開を命とする商社においては、これも現実的な選択肢ではない。よって多くの場合、商社マンは辞令を手にし、希望と使命感と、それに多少のフラストレーションを胸に抱いて任地に赴くことになる。
ほとんどの場合、赴任すれば自分の任地が好きになるが、少数ではあるが、自分の任地が最後まで好きになれない人もいる。こういう人たちに是非読んで欲しい本が、キャサリン・サンソムの『東京に暮らす 1928‐ 1936 』(岩波文庫)である。著者は昭和の初期に日本に滞在したイギリスの外交官夫人だが、当時の日本は軍国主義への道をまっしぐらに進みつつあり、外国人女性にとって決して住み易い環境ではなかったはずだ。それにも拘わらず、この本は驚くばかりに優しさにあふれた記述に満ちている。
「日本人を理解する唯一の方法は、他の国民を理解する時と全く同じで、まず相手に同情をよせ、そうしているうちに相手が好きになることです」という。実に参考になるではないか。実際、彼女は日本について多くのことを理解するようになる。例えば施主と職人気質の植木屋の不思議な関係のなかに、日本の権力構造の特殊性を発見する下りがあるが、鋭い。また日本における「個の自由」と「集団」の関係についても深い観察がある。夫人は注意深く言葉を選びながら、「個の自由」を優先するというイギリスの価値観のほうが、多くの社会的コストを伴うものではあるが、より優れているとはっきり述べる。さらに日本もやがてはその方向に変化していくであろうと示唆する。
文章に格調があり、観察に幅と深さがある。良著である。サンソム夫人の予言通り、戦後になって日本人は個人の自由を手に入れた。しかし最近、若者たちによる信じられないような事件が立て続けに起こり、人々は戦後の価値観そのものにも不安を覚えはじめている。集団から自由になった若者が、それに替わる新しい価値基準をいまだに見いだすことができず、袋小路に入り込んでいるのだ。しかしサンソム夫人がいうように、イギリスにおいてすら個人の自由を得るためには多大の社会的コストを支払わねばならなかった。このコストを恐れるあまり、真に大切なものを否定することはあってはならない。
(橋本尚幸)
ほとんどの場合、赴任すれば自分の任地が好きになるが、少数ではあるが、自分の任地が最後まで好きになれない人もいる。こういう人たちに是非読んで欲しい本が、キャサリン・サンソムの『東京に暮らす 1928‐ 1936 』(岩波文庫)である。著者は昭和の初期に日本に滞在したイギリスの外交官夫人だが、当時の日本は軍国主義への道をまっしぐらに進みつつあり、外国人女性にとって決して住み易い環境ではなかったはずだ。それにも拘わらず、この本は驚くばかりに優しさにあふれた記述に満ちている。
「日本人を理解する唯一の方法は、他の国民を理解する時と全く同じで、まず相手に同情をよせ、そうしているうちに相手が好きになることです」という。実に参考になるではないか。実際、彼女は日本について多くのことを理解するようになる。例えば施主と職人気質の植木屋の不思議な関係のなかに、日本の権力構造の特殊性を発見する下りがあるが、鋭い。また日本における「個の自由」と「集団」の関係についても深い観察がある。夫人は注意深く言葉を選びながら、「個の自由」を優先するというイギリスの価値観のほうが、多くの社会的コストを伴うものではあるが、より優れているとはっきり述べる。さらに日本もやがてはその方向に変化していくであろうと示唆する。
文章に格調があり、観察に幅と深さがある。良著である。サンソム夫人の予言通り、戦後になって日本人は個人の自由を手に入れた。しかし最近、若者たちによる信じられないような事件が立て続けに起こり、人々は戦後の価値観そのものにも不安を覚えはじめている。集団から自由になった若者が、それに替わる新しい価値基準をいまだに見いだすことができず、袋小路に入り込んでいるのだ。しかしサンソム夫人がいうように、イギリスにおいてすら個人の自由を得るためには多大の社会的コストを支払わねばならなかった。このコストを恐れるあまり、真に大切なものを否定することはあってはならない。
(橋本尚幸)
2000年4月2日日曜日
教育改革に向けて国民的議論を期待する
小渕首相の私的諮問機関である「教育改革国民会議」が発足し、一年後を目途に提言をとりまとめることになった。教育問題はまさに国民的な関心事だ。閉塞感が漂う現代日本の諸問題を突き詰めて行くと、多くの場合、最後は日本の教育の問題に突き当たることを考えれば、この会議での議論の行方に注目せざるを得ない。そこで三つの具体的な提案をしてみたい。ご批判を乞う。
まず第一に、義務教育の自由化である。そもそも初等教育とは親の責任でなすべきものだ。学校ごとに多様なカリキュラムを認め、学校に行かせる行かせないも含め、コースの選択は親の自由とするべきである。今の義務教育は均質の労働者、兵員を大量に養成することを目的として、国民国家の成立とともに制度化されたもので、わずか200 年の歴史しかない実験的なものだ。人類の偉業の大部分は義務教育がない時代に達成された。義務であり離脱を許さないからいじめも発生する(いじめは刑務所や軍隊とかの逃げ場のない環境でしか起こらないことに注意)。学校も不適切な生徒を放校する自由がないから、学級崩壊が多発し校内暴力がのさばる。
第二の提案は大学入学試験に口頭試問、論述試験を大幅に導入することだ。論理的な表現力は、国際社会で生きて行く上でまことに基本的な能力であるにかかわらず、日本人はこれを苦手とする人が多い。大学入試には含まれていないが故に、若いうちに十分な訓練が為されないのである。
三つ目に望みたいことは大学院教育の拡充である。20 世紀を通じて世界中ではっきり観察されるトレンドは、教育の高度化と高学歴化だ。今や欧米諸国はいうに及ばず発展途上国でも、高級官僚、大企業の幹部のほとんどがマスターやPhD なのである。ところがそのカウンターパートである日本の官僚、民間ビジネスマンはいまだに大部分が学士だ。肩身が狭いという以上に、議論のベース、ロジックが彼我で微妙に異なるためコミュニケーションに支障が出る場合があるのだ。国際機関に日本人職員が少ないのもこれが理由だ。グローバル時代にこれはゆゆしき問題といわざるを得ない。具体的にどうするかだが、まず手始めに国家公務員は修士号を持っていることを採用条件としてはどうか。そうなれば多くの民間大企業もそれに倣って院卒の採用を拡大して行くことになろう。大学院に入らねばならないとなると大学生も勉強するようになるだろう。
以上の三点が筆者の提案である。これに対して直ちに多くの反論が出てくることは覚悟している。一番多いご批判は「そういうやりかたは公平でない」というものだろう。しかし筆者には、必要以上に公平であろうとする関係者の異常な努力こそが、日本の教育を大きく歪めていると思えてならないのである。
(橋本尚幸)
まず第一に、義務教育の自由化である。そもそも初等教育とは親の責任でなすべきものだ。学校ごとに多様なカリキュラムを認め、学校に行かせる行かせないも含め、コースの選択は親の自由とするべきである。今の義務教育は均質の労働者、兵員を大量に養成することを目的として、国民国家の成立とともに制度化されたもので、わずか200 年の歴史しかない実験的なものだ。人類の偉業の大部分は義務教育がない時代に達成された。義務であり離脱を許さないからいじめも発生する(いじめは刑務所や軍隊とかの逃げ場のない環境でしか起こらないことに注意)。学校も不適切な生徒を放校する自由がないから、学級崩壊が多発し校内暴力がのさばる。
第二の提案は大学入学試験に口頭試問、論述試験を大幅に導入することだ。論理的な表現力は、国際社会で生きて行く上でまことに基本的な能力であるにかかわらず、日本人はこれを苦手とする人が多い。大学入試には含まれていないが故に、若いうちに十分な訓練が為されないのである。
三つ目に望みたいことは大学院教育の拡充である。20 世紀を通じて世界中ではっきり観察されるトレンドは、教育の高度化と高学歴化だ。今や欧米諸国はいうに及ばず発展途上国でも、高級官僚、大企業の幹部のほとんどがマスターやPhD なのである。ところがそのカウンターパートである日本の官僚、民間ビジネスマンはいまだに大部分が学士だ。肩身が狭いという以上に、議論のベース、ロジックが彼我で微妙に異なるためコミュニケーションに支障が出る場合があるのだ。国際機関に日本人職員が少ないのもこれが理由だ。グローバル時代にこれはゆゆしき問題といわざるを得ない。具体的にどうするかだが、まず手始めに国家公務員は修士号を持っていることを採用条件としてはどうか。そうなれば多くの民間大企業もそれに倣って院卒の採用を拡大して行くことになろう。大学院に入らねばならないとなると大学生も勉強するようになるだろう。
以上の三点が筆者の提案である。これに対して直ちに多くの反論が出てくることは覚悟している。一番多いご批判は「そういうやりかたは公平でない」というものだろう。しかし筆者には、必要以上に公平であろうとする関係者の異常な努力こそが、日本の教育を大きく歪めていると思えてならないのである。
(橋本尚幸)
2000年3月1日水曜日
IT 革命と総合商社
商社株が注目されている。先日テレビで“サンデープロジェクト”を見ていたら、証券会社の部長さんの3 人のうち2 人が、IT 関連銘柄として商社株を薦めていた。それに対し司会(田原総一郎氏)はいまひとつ納得のゆかない様子であった。電子商取引が進めば中間業者は中抜きされるというイメージが根強いからだろう。
IT 革命が商社に与える影響を次の三つの切り口で考えてみたい。すなわち、1 )IT 関連の新規ビジネスと商社、2 )IT 革命に伴う取引形態の変化と商社の商権の帰趨、3 )IT による商社のコスト削減、の三つである。
まず、IT 関連で生じる新規ビジネスと投資については、商社は相当に有利な位置にあると見てそう異論はないだろう。商社はこの分野で多大の先行投資を積み上げてきている。またこの分野ではアメリカが一歩先を進んでおり、日本のIT関連の新規ビジネスはアメリカなどの技術や企業がグローバルに絡んでくる場合が多い。こういったアレンジは商社の得意分野で、いわば商社のお家芸である。
つぎにIT 革命が商取引に及ぼす影響だが、これについてはいろんな見方がある。総合商社のSCM 展開は確かにめざましいものがあるが、同時に商取引の電子化で機能のない中間業者が中抜きされる可能性もあるからだ。しかし見落とされがちな点だが、商取引の電子化は商取引の全体ボリュームを飛躍的に増大させるということが重要である。つまりITで取引コストが格段に安くなることで、従来インハウスにとどまっていた多くの工程が、自然に外部化され、従来は社内取引や工場内部の仕掛品の移動であったものが、今後は企業間商取引に置き換わって行くのである。つまりIT革命は最終消費額に対する卸売取引額の比率(W/R比率)を高め、川中の商社ビジネスは逆に増えるかもしれないのである。
三つ目のポイントは、IT革命による商社のコスト削減だ。現在アメリカにおいては、伝統的な産業(自動車製造、発電機器製造、農業など)で、ITを工程管理、資材購入などに活用することで大きなコスト削減が実現されつつある。日本の商社においてもそれが期待できる。総合商社の産出/投入関係を見ると、産出品目はいわゆる「商社機能」である。投入生産要素は「お金」と「情報」、それに「人」だ。これらの生産要素がIT革命ですべて安くなりつつある。調達方法の多様化で「お金」は安くなった。「情報」についても然り。最後の「人」だが、ITによるナレッジ・マネージメント・システムが整備されれば、商社マンの生産性を格段に上昇させ、単位労働コストを大きく押し下げることが可能になる。
以上の通り、総合商社がIT革命の担い手、IT革命の受益者として将来性が期待され、商社株が買われていることは、十分根拠のあることなのである。
(橋本尚幸)
IT 革命が商社に与える影響を次の三つの切り口で考えてみたい。すなわち、1 )IT 関連の新規ビジネスと商社、2 )IT 革命に伴う取引形態の変化と商社の商権の帰趨、3 )IT による商社のコスト削減、の三つである。
まず、IT 関連で生じる新規ビジネスと投資については、商社は相当に有利な位置にあると見てそう異論はないだろう。商社はこの分野で多大の先行投資を積み上げてきている。またこの分野ではアメリカが一歩先を進んでおり、日本のIT関連の新規ビジネスはアメリカなどの技術や企業がグローバルに絡んでくる場合が多い。こういったアレンジは商社の得意分野で、いわば商社のお家芸である。
つぎにIT 革命が商取引に及ぼす影響だが、これについてはいろんな見方がある。総合商社のSCM 展開は確かにめざましいものがあるが、同時に商取引の電子化で機能のない中間業者が中抜きされる可能性もあるからだ。しかし見落とされがちな点だが、商取引の電子化は商取引の全体ボリュームを飛躍的に増大させるということが重要である。つまりITで取引コストが格段に安くなることで、従来インハウスにとどまっていた多くの工程が、自然に外部化され、従来は社内取引や工場内部の仕掛品の移動であったものが、今後は企業間商取引に置き換わって行くのである。つまりIT革命は最終消費額に対する卸売取引額の比率(W/R比率)を高め、川中の商社ビジネスは逆に増えるかもしれないのである。
三つ目のポイントは、IT革命による商社のコスト削減だ。現在アメリカにおいては、伝統的な産業(自動車製造、発電機器製造、農業など)で、ITを工程管理、資材購入などに活用することで大きなコスト削減が実現されつつある。日本の商社においてもそれが期待できる。総合商社の産出/投入関係を見ると、産出品目はいわゆる「商社機能」である。投入生産要素は「お金」と「情報」、それに「人」だ。これらの生産要素がIT革命ですべて安くなりつつある。調達方法の多様化で「お金」は安くなった。「情報」についても然り。最後の「人」だが、ITによるナレッジ・マネージメント・システムが整備されれば、商社マンの生産性を格段に上昇させ、単位労働コストを大きく押し下げることが可能になる。
以上の通り、総合商社がIT革命の担い手、IT革命の受益者として将来性が期待され、商社株が買われていることは、十分根拠のあることなのである。
(橋本尚幸)
2000年2月1日火曜日
わたしの阪神大震災
六千数百人の命を奪った阪神大震災から5年。個人的にも忘れることが出来ない事件であった。ちょうどそのとき関西に用事があり、宿泊していた西宮の両親宅で地震に遭遇したのだ。寝ている上にタンスが倒れてきて、更にその上に屋根が落ちてきた。身動きがとれず、土埃と屋根の重みで息も出来ない。右足の膝から下だけは、わずかに動いたので、体を少しずつその方向にずらして行き、最後は無我夢中で一気に脱出した。抜け出たところは崩れた屋根の上で、頭上には一面の星空があった。
それから罹災者生活が始まったが、余震が続く夜中、手帳に書き付けた「死なないためには」と題するメモが残っているので紹介したい。1)タンスの下では寝ないこと。どんなことをしてもタンスは必ず倒れる。2)ボロ家には住まないこと。古い家は例外なく壊れてしまった。3)水を確保すること。食べ物なぞはなくとも三日ぐらいは平気だが、水がないと本当にどうしようもない。井戸があれば一番よい。
この三点を心に決めて、交通手段の復旧と同時に東京に帰ってきた。しかし、以来5年、ひとつも実行できていない。寝ている部屋の壁には相変わらず本棚がある。住んでいるところも古い木造住宅だ。井戸を掘ることにいたってはだれも冗談だと思って相手にしてくれない。なぜ実行に移せないでいるのか。それは経済的な問題である。タンスのない広い部屋にも、頑丈な家を建築するにも、井戸を掘るにも、たいへんなお金がかかる。日本では最も基本的な「死なない」ことが、きわめて高くつくのである。
日本の個人金融資産が1300兆円だとか、GDPは世界二位だとか、日本はえらくお金持ちの国であるかのような錯覚がある。だからODAも大盤振る舞いだ。新年の各紙の社説にも、もう経済成長を追い求めるのはやめよう、生活の質の方が大切だ、という論調が目立った。でも大部分の国民が地震ですぐ壊れるような家に住んでいて、どうしてそんなことがいえるのか。生活の質は物質的な裏付けがあってはじめて得られるものだ。ゼロ成長でもかまわないと言うには、はっきり言ってまだ十年早いのである。少子化が進み、ひ弱な若者が増え、経済成長率の低下は不可避とする議論があるが、それにも同意できない。
阪神大震災の話に戻るが、地震の直後の瓦礫のなかで、子どものような若い婦人警官がひとりで、信号機が停止した街路の交通整理をしているのを見た。怪我した家族を車に乗せた男が大声で叫びながら猛スピードで交差点に突っ込んで来るのだが彼女はいっさいひるみを見せなかった。以来、筆者は若者と女性の悪口は言わない。労働力問題は若年層と女性の就業率を上げることで十分対応できる。
(橋本尚幸)
それから罹災者生活が始まったが、余震が続く夜中、手帳に書き付けた「死なないためには」と題するメモが残っているので紹介したい。1)タンスの下では寝ないこと。どんなことをしてもタンスは必ず倒れる。2)ボロ家には住まないこと。古い家は例外なく壊れてしまった。3)水を確保すること。食べ物なぞはなくとも三日ぐらいは平気だが、水がないと本当にどうしようもない。井戸があれば一番よい。
この三点を心に決めて、交通手段の復旧と同時に東京に帰ってきた。しかし、以来5年、ひとつも実行できていない。寝ている部屋の壁には相変わらず本棚がある。住んでいるところも古い木造住宅だ。井戸を掘ることにいたってはだれも冗談だと思って相手にしてくれない。なぜ実行に移せないでいるのか。それは経済的な問題である。タンスのない広い部屋にも、頑丈な家を建築するにも、井戸を掘るにも、たいへんなお金がかかる。日本では最も基本的な「死なない」ことが、きわめて高くつくのである。
日本の個人金融資産が1300兆円だとか、GDPは世界二位だとか、日本はえらくお金持ちの国であるかのような錯覚がある。だからODAも大盤振る舞いだ。新年の各紙の社説にも、もう経済成長を追い求めるのはやめよう、生活の質の方が大切だ、という論調が目立った。でも大部分の国民が地震ですぐ壊れるような家に住んでいて、どうしてそんなことがいえるのか。生活の質は物質的な裏付けがあってはじめて得られるものだ。ゼロ成長でもかまわないと言うには、はっきり言ってまだ十年早いのである。少子化が進み、ひ弱な若者が増え、経済成長率の低下は不可避とする議論があるが、それにも同意できない。
阪神大震災の話に戻るが、地震の直後の瓦礫のなかで、子どものような若い婦人警官がひとりで、信号機が停止した街路の交通整理をしているのを見た。怪我した家族を車に乗せた男が大声で叫びながら猛スピードで交差点に突っ込んで来るのだが彼女はいっさいひるみを見せなかった。以来、筆者は若者と女性の悪口は言わない。労働力問題は若年層と女性の就業率を上げることで十分対応できる。
(橋本尚幸)
2000年1月1日土曜日
日本文化のルーツとグローバリゼーション
日本の家庭においては、冬の人気メニューのナンバーワンはなべ物とのことで、2000年の正月はどこにも出かけず、炬燵でおなべという人も多いかもしれない。99年中は、長引く不況のなか、東海村、新幹線、H2ロケットと日本中にちょんぼが目立ち、こんなことで日本は果たして大丈夫かと、いろいろ落ち込むことも多かった一年であったが、雪見酒におでんなど突っついていると、やはり日本人に生まれて良かったと実感するのである。そこで質問。世界で最初におなべ料理を食べたのはだれだ。
この問題は意外と複雑で、調べるとどんどん時代を遡ってゆく。結局、容器としての「お鍋」を最初につくった人が世界最初の「おなべ」を食べたと考えるのが妥当との結論となるが、こうなると考古学の問題だ。いちばん古い土鍋(土器)はどこにある。意外や意外、それは日本列島であった。最近、青森県で出土した縄文土器は、放射性炭素法年代測定によると約1万6500年前と判定され、世界最古とされた。
当時の縄文人たちは、竪穴式住居のなかで、たき火のなかに縄文式土器を据え、シカやイノシシの肉、魚介類、それに根菜類やトチの実からとったでんぷんなどを入れて煮立て、みんなでふうふう言いながら食べていたのだ。これは当時の地球では最先端の食文化であった(なにせ、他所には「お鍋」がなかった)。現代日本人のほぼ半数以上は縄文人のDNAを受け継いでいることが、これまた最新の科学技術で明らかになっている。だから、おなべ料理を発明したのはやはり日本人といえるのだ。
単なるおなべの話であるが、このことはいろいろ示唆的である。日本人は昔から物まね民族といわれてきた。しかし日本人はそのルーツに核となるしっかりした文化を持っていたからこそ、外来文化を、どんどん抵抗なく受け入れることが出来たのではないか。弥生時代になり比較的少数の外来人とともに農耕技術が日本列島に伝来するが、狩猟民族であった縄文人はそれをことごとく消化し、数百年にして世界最大級の墳墓群を有する農耕型の古代文明を築き上げる。アニミズム(古代神道)に生きていた日本人は、突然に仏教を取り入れ、200年程で世界最大の鋳造仏(奈良の大仏)を建造するまでに大変身する。弓こそ命と信じていた武士たちも、ポルトガル人が鉄砲を持ち込んでからわずか30年で、日本を世界最大の鉄砲生産国にしてしまう。明治維新後の西欧文明の移入は言わずもがなだ。
背景にあったのは、いくら外国の文明を受け入れたところで、自己のアイデンティティーは絶対に傷つかないという確信でなかったか。21世紀を目前に、日本は大きな変化に直面している。グローバリゼーション、IT革命、企業経営の改革、社会改造などなど。でもやはり冬になれば、人々は昔ながらのおなべを囲む。自信を持ってグローバリゼーション対応と自己改革に臨みたい。
(橋本尚幸)
この問題は意外と複雑で、調べるとどんどん時代を遡ってゆく。結局、容器としての「お鍋」を最初につくった人が世界最初の「おなべ」を食べたと考えるのが妥当との結論となるが、こうなると考古学の問題だ。いちばん古い土鍋(土器)はどこにある。意外や意外、それは日本列島であった。最近、青森県で出土した縄文土器は、放射性炭素法年代測定によると約1万6500年前と判定され、世界最古とされた。
当時の縄文人たちは、竪穴式住居のなかで、たき火のなかに縄文式土器を据え、シカやイノシシの肉、魚介類、それに根菜類やトチの実からとったでんぷんなどを入れて煮立て、みんなでふうふう言いながら食べていたのだ。これは当時の地球では最先端の食文化であった(なにせ、他所には「お鍋」がなかった)。現代日本人のほぼ半数以上は縄文人のDNAを受け継いでいることが、これまた最新の科学技術で明らかになっている。だから、おなべ料理を発明したのはやはり日本人といえるのだ。
単なるおなべの話であるが、このことはいろいろ示唆的である。日本人は昔から物まね民族といわれてきた。しかし日本人はそのルーツに核となるしっかりした文化を持っていたからこそ、外来文化を、どんどん抵抗なく受け入れることが出来たのではないか。弥生時代になり比較的少数の外来人とともに農耕技術が日本列島に伝来するが、狩猟民族であった縄文人はそれをことごとく消化し、数百年にして世界最大級の墳墓群を有する農耕型の古代文明を築き上げる。アニミズム(古代神道)に生きていた日本人は、突然に仏教を取り入れ、200年程で世界最大の鋳造仏(奈良の大仏)を建造するまでに大変身する。弓こそ命と信じていた武士たちも、ポルトガル人が鉄砲を持ち込んでからわずか30年で、日本を世界最大の鉄砲生産国にしてしまう。明治維新後の西欧文明の移入は言わずもがなだ。
背景にあったのは、いくら外国の文明を受け入れたところで、自己のアイデンティティーは絶対に傷つかないという確信でなかったか。21世紀を目前に、日本は大きな変化に直面している。グローバリゼーション、IT革命、企業経営の改革、社会改造などなど。でもやはり冬になれば、人々は昔ながらのおなべを囲む。自信を持ってグローバリゼーション対応と自己改革に臨みたい。
(橋本尚幸)
1999年12月1日水曜日
「真空リーダー」は日本を変えるか
秋が深まり東京は一年でもとりわけ美しい季節となった。わけても当社の竹橋ビルから眺める皇居の樹海はすばらしい。都心のど真ん中の超一等地にありながら、この100ヘクタールを越える森林は、注意深く自然林の形態が維持され、野鳥や植物の楽園ともなっている。その周りを取り巻くのは、大手町、丸の内、霞ヶ関などで、日本のほとんどの政治・経済活動がそこに集積され、巨大なパワーセンターが形成されている。しかしその中心には、ぽっかりと穴があいていて、そこには自然があるばかりである。
この東京という都市の特殊な構造に最初に着目したのはフランスの構造主義者のロラン・バルトだ。もう30年も前になるが「いかにもこの都市には中心がある。でもその中心は空虚である」と喝破したのだ(『表徴の帝国』1970年)。以来、この言葉は日本文化と社会の特殊性を物語る言葉としておびただしく引用されてきた。
中心が「空」である組織の利点として、安定性がある。話し合いによるコンセンサスがベースにあるからである。欠点としては、逆にあまりにも安定的すぎて、変化し難いことがあげられる。変化を受け入れる風土は希薄で、強いリーダーシップは昔から胡散臭いものと考えられてきた。(ちなみに、日本史における「国民的英雄」は例外なしに悲劇的な最期を遂げる。ヤマトタケル、源義経、楠木正成など。リーダーは挫折してはじめて人々から愛されたのである。)
しかしそれでは日本は永久に変化できないかと言えばそうでもない。数百年に一度は、すごいリーダーが出現して、中心の真空部分に降り立ち、社会に革命的な変化をもたらすのだ。それが源頼朝であり、徳川家康であり、大久保利通であった。いずれも人々から決して愛されはしなかったが強力なリーダーシップを発揮し日本を確実に変化させた。
このような強力なリーダーはどの様な条件が満たされたときに日本に出現するのかだが、いずれの場合でも、人々が現状につくづく嫌気し、変化を求めるコンセンサスが背景にあったように思う。
日産自動車にルノーからゴーン氏がやって来て、ドラスティックな改革を進めている。不思議なことに社内ではそれほど大きな抵抗はないときく。ゴーン氏がやっている改革とは、日産の社員がだれもがやらねばならないと考えていた(しかし出来なかった)ことに過ぎないからということだ。リーダーシップを受容する条件が整っていたのだ。
日本全般についても同じことがいえる。いまや変化の必要性、その方向についてコンセンサスがしっかり形成されている。まさにリーダーシップを受容する条件は整っているのだ。いったんコンセンサスができると日本は動く。日本の変化は確実に始まっているように思う。
(橋本 尚幸)
この東京という都市の特殊な構造に最初に着目したのはフランスの構造主義者のロラン・バルトだ。もう30年も前になるが「いかにもこの都市には中心がある。でもその中心は空虚である」と喝破したのだ(『表徴の帝国』1970年)。以来、この言葉は日本文化と社会の特殊性を物語る言葉としておびただしく引用されてきた。
中心が「空」である組織の利点として、安定性がある。話し合いによるコンセンサスがベースにあるからである。欠点としては、逆にあまりにも安定的すぎて、変化し難いことがあげられる。変化を受け入れる風土は希薄で、強いリーダーシップは昔から胡散臭いものと考えられてきた。(ちなみに、日本史における「国民的英雄」は例外なしに悲劇的な最期を遂げる。ヤマトタケル、源義経、楠木正成など。リーダーは挫折してはじめて人々から愛されたのである。)
しかしそれでは日本は永久に変化できないかと言えばそうでもない。数百年に一度は、すごいリーダーが出現して、中心の真空部分に降り立ち、社会に革命的な変化をもたらすのだ。それが源頼朝であり、徳川家康であり、大久保利通であった。いずれも人々から決して愛されはしなかったが強力なリーダーシップを発揮し日本を確実に変化させた。
このような強力なリーダーはどの様な条件が満たされたときに日本に出現するのかだが、いずれの場合でも、人々が現状につくづく嫌気し、変化を求めるコンセンサスが背景にあったように思う。
日産自動車にルノーからゴーン氏がやって来て、ドラスティックな改革を進めている。不思議なことに社内ではそれほど大きな抵抗はないときく。ゴーン氏がやっている改革とは、日産の社員がだれもがやらねばならないと考えていた(しかし出来なかった)ことに過ぎないからということだ。リーダーシップを受容する条件が整っていたのだ。
日本全般についても同じことがいえる。いまや変化の必要性、その方向についてコンセンサスがしっかり形成されている。まさにリーダーシップを受容する条件は整っているのだ。いったんコンセンサスができると日本は動く。日本の変化は確実に始まっているように思う。
(橋本 尚幸)
1999年10月1日金曜日
企業の新規事業展開が日本を不況から脱出させる
若干の景気回復の兆しが見え始めてはいるものの、まだまだ日本経済は不況を脱してはいない。
不況とは国民経済の供給能力が需要を上回る状態を意味するので、不況から脱出する手段として、まず需要を大きくすること、それから供給力を削減することが考えられる。公共事業等の財政政策や、過剰設備の除却への支援措置などだ。しかしこういった政策は、まだまだ需給ギャップの解消に効果を表していないように見える。
この理由は、こうした従来型の政策が需要と供給能力を単に数量的に一致させようとするだけで、供給構造と需要構造の構造的、質的ミスマッチを解消するに至っていないことにある。この10年、需要構造には大きな変化が生じている。その変化を考慮した供給構造の改造が望まれているのだ。
今月なくなったソニーの創業者の盛田昭夫氏は、ウォークマンというまったく新しい商品を開発し、世界中に爆発的な需要を巻き起こした。いま現在もっとも待ち望まれているのは、こういった企画、新規事業に他ならない。
一般的にこのような新規商品とサービスはベンチャー企業によって提供されると考えられている。そこで、わが国においてベンチャー企業の育成ための具体的な仕組み作りが進んでいる。しかし、それにも拘わらず、わが国におけるベンチャー企業活動は、アメリカに比べて非常に見劣りする状態にとどまっている。全産業の開業率はついに廃業率を下回るまでに落ち込んだ。その背景には社会風土や文化の相違があるように思える。
19世紀のフランスの歴史家アレックス・トックビルは、不朽の名著といわれるその著書『アメリカの民主政治』のなかで「アメリカの強さは無数の零細企業にある」と喝破した。アメリカのベンチャー企業には、このように19世紀以来の長い伝統があるのだ。
それに対して、わが国ではむしろ、ベンチャー企業もさることながら大・中堅企業が絶え間なく自己革新と新規事業展開を行うことで、経済の供給構造を時代の変化に対応させてきた。その背後には組織体の維持(お家の存続)がもっとも大事とされた鎌倉時代からの御家人文化の伝統がある。トヨタ自動車の奥田会長が雇用の維持が出来ない経営者はまず自分の腹を切れと言い切って論議を呼んだが、この雇用確保の姿勢は組織体の維持への強い意志、それと裏腹の関係にあるトヨタならではの攻撃的なシェア拡大主義と合わせて初めて理解できるのだ。
当社では、七人の選抜メンバーからなる「戦略ビジネス発掘タスクフォース」が編成され、新規事業によるブレークスルーを目指して鋭意仕事を始めている。日本では、このような企業内の動きこそが企業を発展させ、さらには日本経済全体の活性化をもたらすと期待されるのである。
(橋本 尚幸)
不況とは国民経済の供給能力が需要を上回る状態を意味するので、不況から脱出する手段として、まず需要を大きくすること、それから供給力を削減することが考えられる。公共事業等の財政政策や、過剰設備の除却への支援措置などだ。しかしこういった政策は、まだまだ需給ギャップの解消に効果を表していないように見える。
この理由は、こうした従来型の政策が需要と供給能力を単に数量的に一致させようとするだけで、供給構造と需要構造の構造的、質的ミスマッチを解消するに至っていないことにある。この10年、需要構造には大きな変化が生じている。その変化を考慮した供給構造の改造が望まれているのだ。
今月なくなったソニーの創業者の盛田昭夫氏は、ウォークマンというまったく新しい商品を開発し、世界中に爆発的な需要を巻き起こした。いま現在もっとも待ち望まれているのは、こういった企画、新規事業に他ならない。
一般的にこのような新規商品とサービスはベンチャー企業によって提供されると考えられている。そこで、わが国においてベンチャー企業の育成ための具体的な仕組み作りが進んでいる。しかし、それにも拘わらず、わが国におけるベンチャー企業活動は、アメリカに比べて非常に見劣りする状態にとどまっている。全産業の開業率はついに廃業率を下回るまでに落ち込んだ。その背景には社会風土や文化の相違があるように思える。
19世紀のフランスの歴史家アレックス・トックビルは、不朽の名著といわれるその著書『アメリカの民主政治』のなかで「アメリカの強さは無数の零細企業にある」と喝破した。アメリカのベンチャー企業には、このように19世紀以来の長い伝統があるのだ。
それに対して、わが国ではむしろ、ベンチャー企業もさることながら大・中堅企業が絶え間なく自己革新と新規事業展開を行うことで、経済の供給構造を時代の変化に対応させてきた。その背後には組織体の維持(お家の存続)がもっとも大事とされた鎌倉時代からの御家人文化の伝統がある。トヨタ自動車の奥田会長が雇用の維持が出来ない経営者はまず自分の腹を切れと言い切って論議を呼んだが、この雇用確保の姿勢は組織体の維持への強い意志、それと裏腹の関係にあるトヨタならではの攻撃的なシェア拡大主義と合わせて初めて理解できるのだ。
当社では、七人の選抜メンバーからなる「戦略ビジネス発掘タスクフォース」が編成され、新規事業によるブレークスルーを目指して鋭意仕事を始めている。日本では、このような企業内の動きこそが企業を発展させ、さらには日本経済全体の活性化をもたらすと期待されるのである。
(橋本 尚幸)
1999年9月1日水曜日
高齢化する「団塊の世代」は日本を衰退させるか?
8月1日付のニューヨーク・タイムズは第一面に「21世紀の日本は、人口の減少と高齢化のため、国家としての活力と影響力を失って行くだろう」との内容の記事を載せた。まったく余計なお世話である。そんなことはないと思う。
日本の人口が減少に向かっているのは事実である。しかしこれ自体は決して悪いことではない。朝のラッシュ時の地下鉄に乗ってみるまでもなく、昔から日本では人が多すぎることが問題であった。『七人の侍』と『楢山節考』の映画を見てもわかる。だから人口減少は必ず生産性の上昇をもたらすので、人口減少に比例してGDPが減ることはありえない。
高齢化の進行にしても非生産人口の増加を必ずしも意味するものではない。健康医療、家事・介護ロボット、さらにアルツハイマー治療薬の開発がハイピッチで進んでいる。逆に子供の数が減るので教育、養育費の負担は軽くなる。「実質的な」生産人口比率は、いまとほとんど変わらない可能性が高いのである。
問題は、肉体的には元気でまだまだ働けるお年寄りにどう働いてもらうかである。定年延長が常識的な回答であろうが、中高年からは「まだ働かせるの、堪忍して欲しいな」との本音のつぶやきが聞こえることも事実である。先進諸国では高齢者の就業比率は急速に低下しつつあり従来型の定年延長はその流れに逆行するともいえる。別の高年者の有効活用法を考えねばならないのである。筆者の考えでは、ずばり、彼らには「本当の投資家」になってもらえばよいと思う。
日本の莫大な個人金融資産の大部分は60歳以上の高齢者に保有されている。彼らは非常に保守的であり、日本においては「リスクキャピタル」は遂に育たず、これが経済低迷の原因ともなった。
しかしいま高齢化しつつあるのは戦後生まれの「団塊の世代」である。いろいろ批判はされるが、ともかく戦後の民主教育のおかげで知識の平均レベルは高く好奇心も強い。1200兆円の個人金融資産も相続などを通じてやがては彼らのものとなる。その時こそ、日本に新しいタイプの投資家集団が出現する。麻雀、パチンコに明け暮れた世代だ、リスク・テイキングはお手のものだ。
現役を引退した「団塊の世代」は、日本の歴史上はじめて、生産者の利益ではなく消費者の利益を主張する政治的な層を形成することになる。前川レポート以来、指向されてきた日本経済の消費主導型経済への転換が、年老いた団塊世代の自己主張で一気に実現できるかも知れない。また国際金融市場でも彼らは「連合赤軍」的な投資行動で各国の金融当局者を戦々恐々とさせるかもしれない。
その数の多さ故に、戦後の日本社会を常に揺るがしてきた「団塊の世代」だが、われわれはまだまだ彼らから目を離すことができないように思う。
(橋本尚幸)
日本の人口が減少に向かっているのは事実である。しかしこれ自体は決して悪いことではない。朝のラッシュ時の地下鉄に乗ってみるまでもなく、昔から日本では人が多すぎることが問題であった。『七人の侍』と『楢山節考』の映画を見てもわかる。だから人口減少は必ず生産性の上昇をもたらすので、人口減少に比例してGDPが減ることはありえない。
高齢化の進行にしても非生産人口の増加を必ずしも意味するものではない。健康医療、家事・介護ロボット、さらにアルツハイマー治療薬の開発がハイピッチで進んでいる。逆に子供の数が減るので教育、養育費の負担は軽くなる。「実質的な」生産人口比率は、いまとほとんど変わらない可能性が高いのである。
問題は、肉体的には元気でまだまだ働けるお年寄りにどう働いてもらうかである。定年延長が常識的な回答であろうが、中高年からは「まだ働かせるの、堪忍して欲しいな」との本音のつぶやきが聞こえることも事実である。先進諸国では高齢者の就業比率は急速に低下しつつあり従来型の定年延長はその流れに逆行するともいえる。別の高年者の有効活用法を考えねばならないのである。筆者の考えでは、ずばり、彼らには「本当の投資家」になってもらえばよいと思う。
日本の莫大な個人金融資産の大部分は60歳以上の高齢者に保有されている。彼らは非常に保守的であり、日本においては「リスクキャピタル」は遂に育たず、これが経済低迷の原因ともなった。
しかしいま高齢化しつつあるのは戦後生まれの「団塊の世代」である。いろいろ批判はされるが、ともかく戦後の民主教育のおかげで知識の平均レベルは高く好奇心も強い。1200兆円の個人金融資産も相続などを通じてやがては彼らのものとなる。その時こそ、日本に新しいタイプの投資家集団が出現する。麻雀、パチンコに明け暮れた世代だ、リスク・テイキングはお手のものだ。
現役を引退した「団塊の世代」は、日本の歴史上はじめて、生産者の利益ではなく消費者の利益を主張する政治的な層を形成することになる。前川レポート以来、指向されてきた日本経済の消費主導型経済への転換が、年老いた団塊世代の自己主張で一気に実現できるかも知れない。また国際金融市場でも彼らは「連合赤軍」的な投資行動で各国の金融当局者を戦々恐々とさせるかもしれない。
その数の多さ故に、戦後の日本社会を常に揺るがしてきた「団塊の世代」だが、われわれはまだまだ彼らから目を離すことができないように思う。
(橋本尚幸)
1999年8月1日日曜日
「総合」商社は時代遅れであるか?
戦後、日本企業は一貫して多角化を進め、総合化の道を進んできたが、最近は自分の得意分野に経営資源を重点的に投入する傾向が顕著になっている。今や「選択と集中」というのが時代のキーワードだ。では何でも扱う「総合」商社も、もはや時代遅れであるのか? そうではないと思う。商社にとっては、その「総合力」こそが強みの源泉なのである。
まず商業と製造業との質的な相違がある。製造メーカーが製品を「製造する」のに対して商社は製品を「取り扱う」。製造業では「選択と集中」が競争力の強化につながるのが普通だが、商社の取扱商品の「選択と集中」は必ずしもそうではない。大根の販売に集中しても八百屋の経営が良くならないのと同じだ。
次に、一般企業の「選択と集中」が進み、企業の守備範囲が狭まれば狭まるほど、総合的なサービスへのニーズが高まることである。企業が専門性を高める一方で直面する問題は複雑化してきている。それが故に「オルガナイザー」、「ソリューション・プロバイダー」という総合商社の役割が一層重要になってくるのだ。
そもそもそれは商人の役割でもある。商人とは、船乗りシンドバッドの昔から、万国の世情、各地の物産に関する豊富な知識の持ち主であり、人々により有利な取引機会を提案するビジネス創造者であった。そのベースには知識と情報があった。三井物産の創設者で価値の高い美術品コレクションを残した益田孝の骨董品の鑑定眼は有名だが、その美術品の「違いがわかる」能力とは、商社マンの力そのものでもあったのだ。商社のコア・コンピタンスとは、やはりひとりひとりの商社マンの見識の広さにある。それは客先ニーズへの対応力の広さであり、すなわち「総合力」に他ならないのだ。
しかし問題がないわけではない。商社の規模がどんどん大きくなるにつれ、組織が細分化され、商社マンの専門性は深まってはいるが、逆に総合性が弱くなっているように思えることだ。ある特定の商品の知識しか持たない専門家はメーカーのセールスマンはつとまっても「商人」とは呼べない。商社マンひとりひとりの知識を、組織的に集積し、体系化し、全員で利用可能なものとすること、すなわち「ナレッジ・マネージメント」が喫緊の課題となっているように思う。
19世紀のイギリスでは、国策に基づきプラントハンターと呼ばれた植物専門家が世界中に派遣され植物収集を行った。集めた膨大な標本、データは、王立キュー植物園で体系化され、それが大英帝国発展パワーの源泉となった。プラントハンターは日本の商社マンのようだが、日本の商社には残念ながら王立キュー植物園に相当する体系化されたノウハウ蓄積システムがない。夏休みのシーズンでもある。植物採集でもしながら商社内キュー植物園の構築に思いをはすのは如何。
(1999年8月2日 橋本尚幸)
まず商業と製造業との質的な相違がある。製造メーカーが製品を「製造する」のに対して商社は製品を「取り扱う」。製造業では「選択と集中」が競争力の強化につながるのが普通だが、商社の取扱商品の「選択と集中」は必ずしもそうではない。大根の販売に集中しても八百屋の経営が良くならないのと同じだ。
次に、一般企業の「選択と集中」が進み、企業の守備範囲が狭まれば狭まるほど、総合的なサービスへのニーズが高まることである。企業が専門性を高める一方で直面する問題は複雑化してきている。それが故に「オルガナイザー」、「ソリューション・プロバイダー」という総合商社の役割が一層重要になってくるのだ。
そもそもそれは商人の役割でもある。商人とは、船乗りシンドバッドの昔から、万国の世情、各地の物産に関する豊富な知識の持ち主であり、人々により有利な取引機会を提案するビジネス創造者であった。そのベースには知識と情報があった。三井物産の創設者で価値の高い美術品コレクションを残した益田孝の骨董品の鑑定眼は有名だが、その美術品の「違いがわかる」能力とは、商社マンの力そのものでもあったのだ。商社のコア・コンピタンスとは、やはりひとりひとりの商社マンの見識の広さにある。それは客先ニーズへの対応力の広さであり、すなわち「総合力」に他ならないのだ。
しかし問題がないわけではない。商社の規模がどんどん大きくなるにつれ、組織が細分化され、商社マンの専門性は深まってはいるが、逆に総合性が弱くなっているように思えることだ。ある特定の商品の知識しか持たない専門家はメーカーのセールスマンはつとまっても「商人」とは呼べない。商社マンひとりひとりの知識を、組織的に集積し、体系化し、全員で利用可能なものとすること、すなわち「ナレッジ・マネージメント」が喫緊の課題となっているように思う。
19世紀のイギリスでは、国策に基づきプラントハンターと呼ばれた植物専門家が世界中に派遣され植物収集を行った。集めた膨大な標本、データは、王立キュー植物園で体系化され、それが大英帝国発展パワーの源泉となった。プラントハンターは日本の商社マンのようだが、日本の商社には残念ながら王立キュー植物園に相当する体系化されたノウハウ蓄積システムがない。夏休みのシーズンでもある。植物採集でもしながら商社内キュー植物園の構築に思いをはすのは如何。
(1999年8月2日 橋本尚幸)
1999年7月5日月曜日
サラリーマンは企業の「隠れ債務」であるか
トヨタ自動車の首脳が終身雇用制度を守るといったとして、格付け機関のムーディーズが、トヨタ自動車の格付けを最上級のAAAからAa1に一ランク格下げしたことは、まだ記憶に新しい。終身雇用制度を維持することは「簿外の債務(隠れ債務)」を発生させるからだという。はたしてわれわれサラリーマンは企業の「隠れ債務」なのか。
日本の終身雇用・年功序列賃金制度のもとでは、サラリーマンは中高年を過ぎると自分が提供する役務以上の報酬をもらうことになる。ムーディーズはこれを、給料の過大支払の約束、すなわち隠れた「債務」で見なしたものである。
それに対して、日本のサラリーマンは若い働き盛りの間、働きに応じた十分な報酬をもらっておらず、その「貸し」を中高年に入ってから取り返しているに過ぎないとの主張もある。これは、従業員は経営に対して「債権者」の資格で発言権を有する、というステークホルダー議論にもつながってくる。そうだとすると、中高年層をねらったリストラなぞは、サラリーマンへの過去の過小給料支払い分(会社としての「借り」)を踏み倒すことにほかならず、とんでもないことだということになる。
本当にそうなのか。結論を急ぐ前に、二つほど考えなければならないことがあるように思う。
一つは、この種の議論は一般に平均値での議論がなされるが、ひとりひとりの個別ケースとなると千差万別だということだ。自分は受け取っている給料より遙かに大きな役務を提供していると自負する人が大部分だと思うが、現実は必ずしもそうでもないケースがあることも、これまた事実なのである(モチロンアナタノコトデハナイ)。
もう一つは、企業と従業員の時間空間をまたがる貸し借り関係は、企業ばかりでなく、従業員をも拘束することから、企業活動と従業員の人生両方を停滞的なものとするということである。江戸時代の住友にも「末家制度」という制度があった。若いうちの給金を低くおさえるかわりに死ぬまで終身年金を払うというシステムであったが、世の中がゆっくりと動く江戸時代であるからこそ機能したもので、明治に入って変化の早い時代になると、この制度は捨てられることになる。
ということで、やはり、どの個人をとっても、またどの時点をとっても、常に「貸し借りなし」と認められる報酬システムが望ましいことになる。ついにトヨタ自動車も従来の年功賃金から能力主義への移行を発表することになった。
永井荷風は、「貸し」と「借り」が複雑に入り組んだ日本社会の仕組みがどうにも我慢がならず、貸しをつくらない、また借りもつくらないという「不施不受」の哲学を徹底して実践した人であった。これが近代個人主義の原点であると考えたからだ。平成の時代、荷風の生き方が非常に今日的であると見直されているが、われわれのお給料も「貸し借りなし」で決めたいものだ。
(1999年7月5日 橋本尚幸)
日本の終身雇用・年功序列賃金制度のもとでは、サラリーマンは中高年を過ぎると自分が提供する役務以上の報酬をもらうことになる。ムーディーズはこれを、給料の過大支払の約束、すなわち隠れた「債務」で見なしたものである。
それに対して、日本のサラリーマンは若い働き盛りの間、働きに応じた十分な報酬をもらっておらず、その「貸し」を中高年に入ってから取り返しているに過ぎないとの主張もある。これは、従業員は経営に対して「債権者」の資格で発言権を有する、というステークホルダー議論にもつながってくる。そうだとすると、中高年層をねらったリストラなぞは、サラリーマンへの過去の過小給料支払い分(会社としての「借り」)を踏み倒すことにほかならず、とんでもないことだということになる。
本当にそうなのか。結論を急ぐ前に、二つほど考えなければならないことがあるように思う。
一つは、この種の議論は一般に平均値での議論がなされるが、ひとりひとりの個別ケースとなると千差万別だということだ。自分は受け取っている給料より遙かに大きな役務を提供していると自負する人が大部分だと思うが、現実は必ずしもそうでもないケースがあることも、これまた事実なのである(モチロンアナタノコトデハナイ)。
もう一つは、企業と従業員の時間空間をまたがる貸し借り関係は、企業ばかりでなく、従業員をも拘束することから、企業活動と従業員の人生両方を停滞的なものとするということである。江戸時代の住友にも「末家制度」という制度があった。若いうちの給金を低くおさえるかわりに死ぬまで終身年金を払うというシステムであったが、世の中がゆっくりと動く江戸時代であるからこそ機能したもので、明治に入って変化の早い時代になると、この制度は捨てられることになる。
ということで、やはり、どの個人をとっても、またどの時点をとっても、常に「貸し借りなし」と認められる報酬システムが望ましいことになる。ついにトヨタ自動車も従来の年功賃金から能力主義への移行を発表することになった。
永井荷風は、「貸し」と「借り」が複雑に入り組んだ日本社会の仕組みがどうにも我慢がならず、貸しをつくらない、また借りもつくらないという「不施不受」の哲学を徹底して実践した人であった。これが近代個人主義の原点であると考えたからだ。平成の時代、荷風の生き方が非常に今日的であると見直されているが、われわれのお給料も「貸し借りなし」で決めたいものだ。
(1999年7月5日 橋本尚幸)
1999年6月7日月曜日
産業競争力と経済の二重構造
日本の産業競争力は、昨今いちじるしく低下したといわれている。スイスのローザンヌに本部を置く経営開発国際研究所(IMD)が毎年発表する「世界競争力報告」と題するリポートによれば、99年の日本の競争力は世界で16位とのことだ。もちろん1位は米国である。2位にシンガポールがくる。香港は7位、カナダですら10位と日本よりも前に付けている。「ランキングを改善するためにも、日本は国内経済の改革や、企業・金融部門のリストラを続けなければならない」という(ナンシー・レイン「日本、構造改革へ待ったなし」『日経新聞 経済教室』99年5月24日)。
同じ問題意識のもとに経団連は産業競争力会議に対して包括的な要望事項を提言している。過剰設備の廃棄、雇用対策、不動産流動化を3本柱とする幅広い官民一体の対策を講じて、衰えてきている日本産業の競争力を取り戻すことが喫緊の課題であるという。
でもちょっとわからないことがある。98年の日本の貿易収支は1000億ドルを優に超える大幅黒字だということだ。日本産業の国際競争力は惨めなほどに低下していると指摘されているにもかかわらず、輸出が続いている。競争力がなければそもそも輸出自体が成り立たないはず。これはどう理解すればよいのか。
ここでわれわれは古くて懐かしい「日本経済の二重構造問題」にたどり着くことになる。一部の限られた産業は抜群の競争力を有しているが、同時にすこぶる効率が悪く、コストの高い産業部門が、淘汰されないで牢固として存続しているということである。発展産業分野と衰退産業部門、製造業と非製造業、強い会社と弱い会社、大企業と中小企業、これらさまざまの二重構造は日本の経済ピクチャーに複雑な綾を織り込んでいる。購買力平価にも如実に日本経済の二重構造があらわれている。輸出物価で推計した購買力平価と消費者物価で推計した購買力平価では1ドルに対して優に5~60円の差が出るのだ。競争力がないのは決して「産業全体」ではなく「一部の産業部門」に過ぎない。
すでに60年代からこの二重構造の解消が叫ばれてきたが、現在に至るまで成果はなかった。70年代の石油危機では「みんな一緒に」頑張ったし、80年代の円高進行も「みんな一緒に」切り抜けた。そうこうするうちにバブルという神風に「みんな一緒に」救われた。いま未曾有の不況の中でまたしても「みんな一緒に」対策を考えている。
いまやらねばならないことは、比較劣位の部門を「再生」という名の下に救済し二重構造を温存することではなく、比較優位部門への生産要素の自然な移動を放任することではないのか。
ちなみに、この「みんな一緒に」という官民一体型の産業政策システムは、戦争遂行を目的として昭和の10年代につくられたものだ。それまではもっとシンプルで古典的な資本主義システムであった。
その古典的なシステムのもとで日本産業は大きく変化し発展した。それと比較すればいま必要とされている構造調整はさほど大きなものではない。明治・大正時代からの本来の「日本的」経済システムにもっと信頼を持ちたいものだ。
(1999年6月7日 橋本尚幸)
同じ問題意識のもとに経団連は産業競争力会議に対して包括的な要望事項を提言している。過剰設備の廃棄、雇用対策、不動産流動化を3本柱とする幅広い官民一体の対策を講じて、衰えてきている日本産業の競争力を取り戻すことが喫緊の課題であるという。
でもちょっとわからないことがある。98年の日本の貿易収支は1000億ドルを優に超える大幅黒字だということだ。日本産業の国際競争力は惨めなほどに低下していると指摘されているにもかかわらず、輸出が続いている。競争力がなければそもそも輸出自体が成り立たないはず。これはどう理解すればよいのか。
ここでわれわれは古くて懐かしい「日本経済の二重構造問題」にたどり着くことになる。一部の限られた産業は抜群の競争力を有しているが、同時にすこぶる効率が悪く、コストの高い産業部門が、淘汰されないで牢固として存続しているということである。発展産業分野と衰退産業部門、製造業と非製造業、強い会社と弱い会社、大企業と中小企業、これらさまざまの二重構造は日本の経済ピクチャーに複雑な綾を織り込んでいる。購買力平価にも如実に日本経済の二重構造があらわれている。輸出物価で推計した購買力平価と消費者物価で推計した購買力平価では1ドルに対して優に5~60円の差が出るのだ。競争力がないのは決して「産業全体」ではなく「一部の産業部門」に過ぎない。
すでに60年代からこの二重構造の解消が叫ばれてきたが、現在に至るまで成果はなかった。70年代の石油危機では「みんな一緒に」頑張ったし、80年代の円高進行も「みんな一緒に」切り抜けた。そうこうするうちにバブルという神風に「みんな一緒に」救われた。いま未曾有の不況の中でまたしても「みんな一緒に」対策を考えている。
いまやらねばならないことは、比較劣位の部門を「再生」という名の下に救済し二重構造を温存することではなく、比較優位部門への生産要素の自然な移動を放任することではないのか。
ちなみに、この「みんな一緒に」という官民一体型の産業政策システムは、戦争遂行を目的として昭和の10年代につくられたものだ。それまではもっとシンプルで古典的な資本主義システムであった。
その古典的なシステムのもとで日本産業は大きく変化し発展した。それと比較すればいま必要とされている構造調整はさほど大きなものではない。明治・大正時代からの本来の「日本的」経済システムにもっと信頼を持ちたいものだ。
(1999年6月7日 橋本尚幸)
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